　199X年。インターネットがまだ一部の人間のもので、ゲームの攻略法は、己の100円玉を溶かして探るか、噂を信じるしかなかった時代。

新しい生活にも馴染めず、ただ時間を持て余していた俺は、講義をさぼって駅前にあるゲームセンター「ネオ・アトランティス」に入り浸っていた。目的は、対戦台に常時人だかりができている、社会現象そのものだった『ストリートファイターII' TURBO』。しかし、俺のなけなしのバイト代は、上級者たちの容赦ない連続技の前に、一瞬で蒸発していく。

「くそっ、今の見えねぇよ！昇龍拳に割り込まれたのか！？」

連コインの甲斐なく連敗し、椅子に深く沈み込んだ時、俺はそれを見つけた。対戦台の横に置かれた、小さな立ち机。そこに、一冊のボロボロのノートが置かれていた。表紙には、マジックでこう殴り書きされていた。

『ネオ・アトランティス・コミュニティノート』

何気なくページをめくった俺は、愕然とした。そこは、俺の知らない宇宙だった。自分よりゲームの知識があるやつ、絵の上手いやつが、この世界にはゴロ-ゴロいる。その事実を、ノートが叩きつけてきた。

ボールペンで几帳面に書かれた、リュウの「ジャンプ大キック→立ち大パンチ→キャンセル波動拳」の3ヒットコンボ。各キャラクターの気絶値（ピヨり値）の一覧表。ページの余白には、まるでプロが描いたような、息をのむほど美しい春麗のイラストが添えられている。誰が書いたのかも分からない、様々な筆跡。だが、そこに込められた熱量だけは、痛いほど伝わってきた。

俺は夢中で読み耽った。顔も、名前も、声も知らない。だが、そこには確かに「匠（たくみ）」がいた。緻-なデータで道を切り拓く分析官（アナリスト）。美しいイラストでキャラクターへの愛を示す絵師。そして、たった一言、「待ちガイルはヤメロ！」と魂の叫びを書き残していく敗れ去った者。

俺は、ノートに書かれたコンボを必死で練習した。指の皮がめくれ、波動拳コマンドのせいでできた「タコ」が潰れても、ノートの達人たちの文字が、俺を叱咤激励してくれている気がした。

そして数週間後、俺は初めて、いつもソニックブームとサマーソルトキックで俺を完封していたあの常連のガイル使いに、一矢報いることができた。たった1ラウンド取っただけ。それでも、心臓が張り裂けそうだった。達成感に震える手で、俺はペン立てから一本のペンを抜き、ノートに新たな1ページを書き加えた。

「リュウ使いです。『大足払いに波動拳を合わせる』、参考にさせてもらってます。今日初めてあのガイルに勝ちました。ありがとうございます」

俺もまた、この偉大な記録に、ほんの少しだけ自分の足跡を残したのだ。

後日、ノートをめくると、俺の書き込みの横に、見覚えのある達筆な文字で、赤ペンが走っていた。

「ピヨらせた後のコンボ、もっと入るぞ。練習あるのみ。GJ」

顔も知らない誰かに、認められた。その瞬間、俺はただのプレイヤーから、この記録を未来へ繋ぐ"名もなき英雄（とも）"の一人になったことを、確かに実感した。

画面の向こうのライバルを倒すことだけが、全てではなかった。俺たちの戦いの記録は、どんな攻略本にも載らない。だが、この色褪せたノートの中に、確かに俺たちの青春は、永遠に綴られていくのだ。

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